自分の本音と出会うためのブログ

教育Re・rise協会設立準備委員会 代表。 自らの能力を制限してしまう感情のアルゴリズムを解除する「認識技術 nTech」を活用し、令和時代の人間の生き方を発信してます。

【私はなんのために生まれてきたのか 〜 社会の役に立ちたい私の、存在意義を探し続けるストーリー① 〜】

本日もご訪問くださりありがとうございます。ひねくれリセッターのこうたです。

 

それで、結局あなたは何がしたいの?という質問をよくいただくので、私がどんな人間でどんなことをやっていこうとしているのかを、少しずつお話ししていくコーナーです。

 

まずは、生い立ちから。
生まれも育ちも神奈川県相模原市、両親と2人の兄、5人家族の末っ子として生まれました。兄とは9歳と7歳離れていたこともあり、とにかく可愛がられていたようです。

ここでいくつか、私が赤ちゃんのころのエピソードをお話しようと思います。

 

▪️私が生まれてくるとき、母と私をつなぐへその緒が、私の首に巻かれていたらしくオギャーと泣けずにいたらしいです。つまり呼吸ができなかったのです。慌てた病院の方が急いでへその緒を切り、しばらくしてからやっと呼吸をし始めたらしいです。もちろんこのことは記憶にはありませんが、生まれた瞬間に死を目前にする経験をしたみたいです。というか、生き始められてない状態でしょうか。新生児集中治療室のようなところには行かないで、他の赤ちゃんと同様の扱いだったようです。このことが私の無意識に何か影響を与えていそうな感じもしますが、今はまだはっきりとはわかっていないですね。


▪️母「こうたは夜泣きも一回もせずに、ずっとニコニコすやすや寝ていたのよ。どれほど親孝行な子かと思ったわ。」
このことを初めて聞いたのは小学校低学年くらいのことでしょうか。
無性に嬉しかったのを覚えています。


▪️兄「こうたは自慢の弟だ。」
やはり嬉しかったですね。兄の友達が家に遊びに来たときなどに言ってくれていた言葉です。また、兄の友達と会った時も「こうた君のお兄さん、自慢の弟だっていつも言っているよ。」と聞いたこともありました。


▪️父「親は子どもに不自由のないようにしてやるのが役目だ。」
本当にその通りにしてくれていたと思います。
よく働き、年に1度は旅行へ連れていってもらっていました。少し大きくなって高校受験や大学受験の時なども、「こうたが考えて決めたことなら。」とほぼその一言で許容してもらっていました。

 

 

これらのことが嬉しかった反面、同時に悲しさもありました。
両親は、共働きで忙しすぎて、学校の行事なども来てくれたことは多くありません。2人の兄は、私が物心ついた時には高校生や中学生だったので、自身の青春に大忙しで、遊んでもらったことがあまりありません。

一緒にいるのに一緒にいない。
ただ一緒に遊ぶことができない。
彼らを責めることもできない。
私はどんどん内向きになり、自分が変わればいいんだ、自分が我慢すればいいんだ、まだ大丈夫、そんの思考のパターンが多かったです。

家族が一緒にいれないなら、保育園の先生、学校の友達、とにかく近くにいて側にいてくれる可能性が高い人たちを知らず知らずのうちに好んで、一緒にいるようになりました。
このように徐々に私の観点(判断基準)がつくられていくのがよくわかります。


今回は一旦ここまで!
徐々にアップしていこうと思います!

読んでくださりありがとうございました。

 

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